数式そのものに宿るイメージ
理論物理学に没頭してひたすら参考書を読み込んでいた頃、数式を読みながら、脳内に自然とイメージが浮かぶことがよくあった。そのイメージは、多くの参考書で図解されるような「状況のイメージ」ではなくて、もっと抽象的で、そしておそらく、もっと根源的なイメージだ。
例えば電磁気学のガウスの法則の式 ( は電束密度、 は電荷密度)を見る。勿論、空間内の電荷から電気力線が流出(あるいは流入)している状況も思い浮かぶが、それはガウスの法則の式で以て記述しようとしている物理学的な状況だ。そうではなく、数式そのものが直接表象するものが別にある。
試みにそれを日本語で説明しようとするなら、「風速計を持って歩き回りながら、吹く風の強さを記録していくイメージ」とでも言えようか。歩き回る場所全体がどういう所かということにはそんなに興味が無くて、飽くまでも一歩進むごとにその場で感じる風の強さに興味がある、という心持ちだ。
もっと言葉を尽くしたとして、大本のイメージからどんどん離れて行って訳が分からなくなるのが関の山だろう。 というたった五つの記号で完結に表現されるからこそ、この式は含蓄に富んでいるし、美しい。
物理学の数式は文と同じ
物理学の方程式に現れる文字や記号というのは、力や速度の成分、質量といった物理学の中で考えたい概念を表すものと、等号や微分の記号といった数学的概念、操作を表すものの二種類でほぼ尽くされる。言うなれば、前者は名詞、後者は動詞や形容詞だ。先に登場したガウスの法則であれば、電束密度を表す と電荷分布を表す が電磁気学において意味のある物理量、方程式の中の「登場人物」で、残りの 、、 がそれらの状態や関係性、あるいはそれらに対する操作を表す「動き」の部分だ。このような視点に立てば、 という数式全体が一つの文として見えて来るのではないだろうか。 勿論、依然として抽象的ではあるが、その抽象性は式が電磁気学における一般的な法則を表すための抽象性だ。だからこそこの式は電磁気学の「基本法則」「基礎方程式」などと呼び親しまれ、様々な電磁気学の諸問題を扱う際の土台になる。
これらの式が打ち出された背後には、多くの先人たちによる慎重な実験と観察、そしてその結果に対する穎利な洞察があった。その洞察は物理学におけるひとつの本質であり、その本質になるべく忠実な形で表現したものが物理学の方程式たちだ。敢えて言語ではなく数式を用いるのは、数学的な概念や操作にもそれぞれが表象するイメージがあって、それを借りるのが物理学にとってとても相性のいいやり方だからだ。日本語の語彙でなければ的確に表現できないものがあるように、数式を運用しなければ的確に表現できない物理学の概念がある。
詩歌としての物理学
それはあるいは、日々生きる中で繊細な知覚と豊かな感性で掴み取ったものを言葉にする、詩歌の創作に近しいものではないだろうか。詩人が、自身にとって重要で意味のある心の揺れ動きから言葉を綴り詩を生み出すように、物理学者も、物理学にとって本質的なアイディアから法則を導きだし理論を構成する。本質的なアイディアに辿り着いた瞬間の物理学者には、詩人が詩歌を生み出すきっかけとなる心の揺れ動きと同じものが生じているに違いない。
物理学は飽くまでも科学の一分野だから、理論を提唱するだけでは終わらず、観測事実との整合性が検証され妥当だと認められれば、論理的かつ客観的なやり方でこの世界を理解するための新たな道具立てとる。詩歌も、それが詠まれ発表されるだけでは終わらず、読み手の心に新たな揺れ動きを生み出し、読み手の情操を豊かにして世界に対する新たな見方を与え得る。客観的であるか主観的であるかの違いこそあれ、両者の効用は同じで、それゆえに等しく価値のある営みだ。
私が物理学の勉強に明け暮れていた時は、まさに、物理学を学ぶことで自身の世界観がより豊かになっていく実感があった。それが面白くて物理学そのものをもっと学びたいという意欲に溢れていた。私にとっては、物理学書は様々な先人たちの手によって編まれた壮大な詩集なのだ。